権利関係上マズそうだけど。

ここここあたりを見てて久しぶりに「兄の人生の物語」読もうと思ってたら消えちゃってたので Google キャッシュから引用してサルベージ。


何日かして冷静になった時に消すかもね

 兄はいつも飛び跳ねていた。羽虫のような低い唸り声を上げながら、顔の前で何度も両手を叩き合わせ、小刻みに飛び跳ねていた。それは私が物心ついたときから目にしていた兄の癖だった。兄は外出先でも同じように飛び跳ねた。そして公衆トイレに異常なまでの執着を見せた。兄は公衆トイレを見かけるたびに、尿意が無いにも関わらず走っていっては、その前での記念写真をせがむのだった。
 幼稚園に入る年齢になっても兄は言葉を覚えなかった。飛び跳ねる行動も公衆トイレへの執着も相変わらずだった。母は生まれたばかりの私を抱き、落ち着きのない兄の手を引きながら、幾つもの病院や施設を回って歩いた。そこで兄に下された診断はさまざまだった。自閉症ではないか。知恵遅れではないか。脳に損傷があるではないか。中でもある施設の担当者が漏らした言葉に母は強いショックを受けた。「わたしも長いことこの仕事をしているから分かるんですけどね、おたくの息子さんはきっと高校なんかには行けないと思いますよ」 それはあまりにも無慈悲で無責任な発言だった。しかしそれがきっかけで母は発奮したのである。
 それから兄に対する母のしつけが始まった。兄が飛び跳ねるたびに母は声を荒げ、奇声を発すれば容赦なく手をあげた。言葉を覚えさせるために壁に五十音表を張り、毎日音読をさせた。テレビが言葉の発達に良くないと聞けばテレビの電源を抜いた。兄を「普通」にするために母は日夜腐心していた。
 しかし幼稚園の中で、兄はひとり動き回っては奇声を発し、先生の話を黙って聞けない状態だった。そんな姿を目の当たりにして、母はひどく衝撃を受け、しつけはさらに苛烈なものになっていった。箸の持ち方、数の数え方、集団生活のルール。それこそ母は死に物狂いだったが、卒園式で兄は一分たりとも椅子に座っていられなかったのである。
 兄は就学前、養護学校特殊学級を勧められていた。しかし母は「どうしてもこの子を普通学級で学ばせてやりたい」と学校長に頭を下げたのだった。普通の子どもたちと一緒に生活をすればこの子も普通になるのではないか、母はそんな期待を込めて頭を下げ続けていた。母の願いはいつも「普通」であることで、それ以上を兄に望むことは無かった。
 どうにか普通学級に進んだ兄であったが、所構わず飛び跳ね、奇声を発しては授業を妨害するという有様だった。家庭訪問のたびに母は特殊学級への編入を勧められていた。「授業にならないんですよ」 そんな教師の苦言に対して母は「それはあなたの授業が悪いからです」と啖呵を切ったりもした。兄のことになると母の神経は過敏になった。その一方で私に対しては特に厳しいということも無かった。兄と比べれば私は大抵のことが上手くこなせたからだ。後に母は「二人目も同じだったら心中してたかもね」と冗談まじりに語った。
 勉強について母は特に熱心だった。兄に付きっきりで漢字の読み書きや算数を教えた。しかし落ち着きがなく理解力もない兄に母は何度も声を荒げた。兄に九九を教えていたとき、傍らにいた私の方が覚えてしまい、私が得意げにそらんじて見せると母は鬼のような形相で「あんたはいいの」と怒鳴ったものである。
 母は父兄会の集まりにも熱心に参加した。すでに兄の噂が校内に広まってからも母は臆せず参加しては、積極的に意見を述べ、父兄の間で一目おかれる存在になっていった。「息子がどうだろうと遠慮する必要はない」と言った母は、少し肩肘を張っていたのではないかと今にして思う。
 学年を進むにつれ、兄に新たな問題が振りかかってきた。もちろん勉強の問題もあったが、それよりも母を悩ませたのはいじめであった。兄は同級生から殴られ蹴られ転がされ服を脱がされ、そして金を巻き上げられていた。歯も折られたし骨折もした。火傷もした。無視もされた。小学校の六年間で兄はありとあらゆるいじめを経験したのではないだろうか。
 しかし兄はなぜか自分をいじめる人間にことさら執着し、しつこく付きまとったのである。母は何度となく「友人を選べ」と兄に諭していたが、兄にしてみればいじめと言う形であっても自分に関心を抱いてくれることが嬉しかったのかもしれない。
 同じ小学校だった私は兄がいじめられている現場を何度となく目撃した。髪を引っ張られ、ランドセルを蹴られ、それでもにたにたしている兄を私は恥ずかしく思った。弟だと思われたくなかった。同級生から「お前の兄貴アホなのか」と聞かれることもあった。怒りは感じなかった。そのたびに私は「そう、アホなんだ」と答えていた。
 また兄は極端に惚れやすかった。小学校に入るとすぐに「ナミちゃんが好き」などと憚らず公言するのだった。そんな兄を母は「あらあら」などと最初は笑って見ていたが、しばらくして兄がその子の後を付け回し、家の周りをうろついているという苦情を受けると、笑い話ではなくなった。兄は何人もの女の子を付け回し、その度に母はその子の家に出向いては頭を下げて詫びるのだった。
 中学に進んだ兄は頻繁に下着やパジャマ、そして布団を汚すようになった。兄にも第二次性徴期はおとずれ、精通が始まっていたのである。もちろん兄は何のことか分かっていなかった。しかし陰部を刺激すると気持ち良くなるということだけは理解していたようだ。いつしか兄は布団の中で服を着たまま陰部を刺激し、そのまま下着の中に放出するようになった。しかもそのままの状態で家を動き回るものだから、パジャマのすそからこぼれ落ちた精液で床が汚れることもしばしばだった。
 自慰行為に正しいも間違いも無いのだが、兄のやり方は掃除や洗濯をする母にとっては好ましいものではなかった。しかしいくらしつけに厳しい母でも息子の自慰行為にまで口を出すこと無かった。本来であれば父親が「ティッシュに出せ」とか「分からないようにやれ」とか、それとなく善導すべき事柄なのだが、子育てはもちろん家庭内の問題には一切無関心だった父がそんなことをするはずもなかった。
 四歳にして高校に入れないと断言された兄が高校に合格した。それは市内で最もレベルの低い私立校だったが、母は「とりあえず高校生にはなれる」と安堵した様子だった。とは言え、依然としていじめの心配はあった。しかしいざ入学してみると、兄は意外なほど学校に馴染んでいた。それは兄と波長の合う人間が多かったせいもある。九九を知らない。漢字を知らない。ひらがなも怪しい。そんな同級生が多くいたのだ。中学時代は学校にも行かず悪さをしてきたという生徒も多くいたが、彼らは意外にも兄をいじめの標的にすることは無かった。また兄と同じように真面目に学校に通い、それでも成績の悪かった生徒たちは兄の良い友人となった。兄は初めて「学校が楽しい」と言った。
 兄の高校では誰も勉強をしなかった。教師も定年をとうに過ぎたロートルが教えており、教師が病死することも一度や二度ではなかった。そんな中で迎えた初めてのテスト。そこで兄は何とクラス二番の成績を取ったのである。その理由は、周りが勉強をしない上、問題も中学レベルだったからだが、何でもビリだった兄にとってこれは快挙であり、母は兄を手放しで褒めた。しかも兄はそれ以降も好成績を取り続け、いつしかクラスでは「秀才」と呼ばれるようになっていた。
 兄が高三の春、クラス担任の老教師は三者面談でこう切り出した。「大学を受けてみないか」 兄の高校は九割方の生徒が就職を希望しており、進学希望者はわずかだった。しかも今まで大学進学を希望した者の中に合格者はひとりもいないと言う。「君ならF大とかS短大あたり狙えると思うけど」 老教師が挙げた大学はレベル的に言えば底辺に位置する大学だった。しかしかつて高校も無理と言われた母にしてみれば、それは歓喜すべきことだった。また兄もキャンパスライフという言葉にかなり魅力を感じていたようで、大学を受ける気になっていた。だが成績が良いと言っても所詮学内で行われるレベルの低いテストの話である。結局兄はすべての大学に落ちることになる。
 もともと兄の受験に反対していた私は就職を勧めたが兄は浪人という道を選んだ。しかし予備校に通うようになった兄は、ほどなく女子大生のチューターに恋をしたのである。母は不思議に思った。高い学費を払って予備校に通わせているにも関わらず全く成績が上がらない。それを兄に尋ねると兄は悪びれもせずに「俺、恋しちゃったんだよう」と答えた。次の瞬間、母は兄の右頬を張っていた。そして「予備校やめろ、自宅で勉強しろ」と言い放ち、その日の内に予備校を辞めさせたのだった。
 予備校を辞めてからの兄は意気消沈し、見るからに勉強に身が入っていなかった。案の定、二年目の大学受験もすべて失敗に終わった。もう兄から浪人という言葉は出てこなかった。その代わり兄は「もう死ぬしかないんだ」とベルトで首を絞める真似をしたり、死のうとして海まで行き、ズボンを膝まで濡らして帰ってきたりした。母は「夢見てた。この子はアホだっての忘れてたよ」と毎日泣いていた。
 兄はそれから幾つもの職場を転々とすることになる。飲食店、コンビニ、パン工場、倉庫整理、警備員。しかしどれも長続きはしなかった。人間関係でつまずくこともあったが、それよりも能力的な問題で解雇される場合がほとんどだった。職場を転々とするうちに言葉にできない感情が兄の中に鬱積していったのだろう。兄が拙い語彙から絞り出した言葉は「もう生きたくない」だった。
 滅多に飛び跳ねることの無くなった兄だが、感情が抑えきれなくなると、かつてのように顔の前で手を叩き合わせ、顔を真っ赤にして唸りながら飛び跳ねた。職場を辞めさせられた理由を問い詰めると、答えに窮した兄はそういう行動に出た。兄にも言い分があるのだろう。理不尽なこともあったのだろう。しかしその思いを表現するだけの言葉を兄は持ち合わせていなかった。だから兄の感情はいつも行き場を失い、最後は行動に表れるのだった。
 感情を言葉で整理することができればもう少し楽になったのだろうか。しかし兄より遥かに多くの言葉を知る者であってもそれぞれに悩みは抱えているもので、私にしても大学を卒業してからは働きもせず、親元で寝て過ごす日々を送っていた。両親、特に母にしてみれば今まで問題のなかった私に裏切られた思いがしたらしい。私は毎日苛烈に面罵され、泣かれ、喚かれ、殴られ、遂には「お前は失敗作だ」と断言された。私は何も言い返すことができなかった。母の言葉は事実かつ正論であり、それを言うだけの資格も母にはあったのだと思う。
 そんな矢先、兄が逮捕された。住居侵入の容疑だった。母は狼狽しパニックを起こしかけていたが、私は不思議と落ち着いていた。思えば兄は昔から好きになった子を家まで付け回すような子どもだった。だからその一報を聞いたとき私は不謹慎にも兄らしいなと思った。警察署に着いた母は兄に会うなり平手打ちをかました。そして首根っこを掴まえると、泣きながら兄の頭を何度も殴るのだった。「馬鹿でもいい。馬鹿でもいいんだ。でもな、人様に迷惑をかけるような真似は絶対に許さない」
 事件の概要はこうだった。兄は同じ職場で働く女性の後をつけ、そのまま家に上がり込もうとしたのである。ちなみにその女性は既婚者だった。「旦那さんが早く帰っててね、私たちが着いたときには取り押さえられていました」 刑事の説明に母は何度もすいませんすいませんと頭を下げていた。母が頭を下げる姿を見るのはこれで何度目だろうと私はぼんやり考えていた。「まあ初犯ですし、被害者の方も、もう今後こういうことをしないのであれば示談にして構わないと仰ってますので」 母はまたお願いしますと言って刑事に深々と頭を下げた。
 そして兄は職を失った。兄は「ごめんなさい反省してます」だとか「心を入れ替えて頑張ります」だとか「もう死にたいんだ」とか喚いていたが、兄の言葉はいつも口先だけで、気持ちがないことを母も私も承知していた。上滑りの言葉がリビングに広がり、幾ばくかの静寂の後に母の嗚咽が聞こえた。兄は母の涙に過剰に反応する。「何で泣くんだ。泣くな」 母に掴みかかろうとした兄を、私は間に入って押し返す。すると背後で母の動く気配があった。振り返ると母は台所から包丁を持ち出していた。「これで一緒に死のう。もう死のう」 ステンレスの切れない包丁をかざす母はひどく哀れに見えた。そんな母を愚かな息子たちが見つめていた。
 兄はまた「ごめんなさい反省しています」とオウムのように繰り返した。「謝るようなこと初めからするな」 母は怒鳴って包丁を振りかざす。「反省反省って何度も同じ間違いを繰り返して、口だけかお前は」 母の怒りの矛先は期せずして私にも向いた。「お前もだ。いつまで家で寝てるんだ。大学に行かせるのにどれだけ金がかかったと思うんだ。寝てるだけなら金返せ」 返す言葉はもちろん返す金もなかった。そして母はくずおれると再び嗚咽にむせぶのだった。父が帰ってくるまで三人がその場から動くことはなかった。
 別に父が帰ってきたからと言って何かが解決するわけでもなかった。父は母の話を黙って聞き、時おり相槌を挟むと、最後は兄に向かって「お前の好きなように生きろ」と言うのがお決まりだった。子どもの意思を尊重すると言えば格好良いが、結局はただの放任であった。父自身が親に進路を決められた人生を歩んできた人だったので、子どもに何かしらの道を示すことに懐疑と恐れがあったのかもしれない。
 私が就職してからは少しずつ家の中も平穏を取り戻しつつある。しかし兄は三十歳を過ぎてもなおアルバイトを転々としていた。しかも最近は風俗に入り浸っているようで、貯金も底を突きかけていた。親と同居をしているからこそ、わずかな余剰が出るにも関わらず、兄はそれをあっさり風俗で浪費してしまうのだ。それを咎めると兄は決まって「この家を出て行きたい」と口にする。しかし母の作った食事を食らい、長風呂に浸かり、洗濯された下着を身につけ、清潔なベッドで寝ている兄を見ると、出て行くつもりなど毛ほども無いように思えた。
 母は言う。「私はあの子のために何もできなかった」 しかし私はそうは思わなかった。もし母がいなければ兄は今でも所構わず飛び跳ねていただろうし、言葉だって話せなかったかもしれない。それを伝えると母は笑ってこう答えた。「でもね、這えば立て、立てば歩めの親心でね、これができたらあれもって欲目が出ちゃうんだよね」 さらに母はこう続けた。「もしね、ちゃんとしたって言ったらおかしいけど、ちゃんとした障害者だったら、こんなに悩まなかったのかなって」 そう言って笑う母の目には涙が浮かんでいた。
 しかし兄は母の気持ちなどまるで理解していないだろう。兄は他人の気持ちを慮ることが全くできないのだ。他人の優しさが分からないから感謝の言葉はおろか感情さえも出てこない。他人の不快感が分からないから近づき過ぎて嫌われる。平気で他人の気持ちを踏みにじる。察すべきところで察することができない。すぐにばれるような嘘をつく。それらのマイナスを補うだけの長所があれば良いのだが、兄には何もない。兄は常にマイナスから出発してゼロにさえたどり着くことができないのだ。
 そんな兄が近々結婚するらしい。相手の女性はとても頭が良く、しかも美しい人だった。私はもう何も言わなかった。父も母も何も言わなかった。たとえ女性の母国語がタガログ語でも、たとえ配偶者ビザ目的の結婚であっても、兄が幸せそうならそれで良かった。もうどうでも良かった。だけど弟として最後にこれだけは言わせて欲しい。兄貴、結婚おめでとう。

2007-12-09 兄の人生の物語